愛田恵流のブログ

日々のこと。生きている理由は遠い昔に解き明かされているのに、探している凡人。現実界では声に出して言えないことを綴っていく。

愛田恵流。あいだめぐる。名前を付ける躊躇い。

こんにちは。私の知らないあなた。

今日も生きているんですね。メーデー

愛田恵流、アイダメグル、あいだめぐる、名前です。

 

私たちは目に見えるもの、見えないもの全てに名前があると思って生活をしている。あなたにも生活があって、私のにも生活がある。その「生活」はどこまであなたの生活を説明しているでしょう。産まれた時から、日本語と呼ばれている言語(音)を私たちは覚えていく。そして、相手の気持ちを知ることができるようになる。私は近頃、私自身は言葉から何も学ぶことはできないのかもしれないと思っている。会話をしていると、不意に私は今ここに存在しているのだろうかと思うことがある。それは、相手に無視されているからではない。「私」という言葉は私を全く説明していないし、私が発する「言葉」も私のものではないような気がする。

 

世の中を生きる人はそれぞれ役割を与えられて演じているように見えないか?朝の通勤ラッシュの電車の中、人は自分を忘れて、会社員になる。親を忘れて、会社員になる。自分を忘れて、親になる。自分を忘れて、生徒になる。生徒を忘れて、自分になった人はどんな人?会社員を忘れて、自分になった人はどんな人?道を外れたばか?あほ?私をこのような思考回路にするのは私自身それとも他者?そもそも人の性格などまとめることは不可能だ。就職、転職、「あなたはどんな人ですか?」。自分でもわかっていないのに答えられるわけがない。吐き気が止まらない。こんな私は変人扱いか。揚げ足を取っているのか。全てにおいて言葉で説明することは不可能である。言葉に姿を変えた時点で「そのもの」とは程遠い存在になってしまっている。ここで問題がある。私たちは言葉でしか、繋がることができないらしい。不思議だ。そもそも言葉は「嘘」に近いにもかかわらず、その言葉で「本当」を語ろうとするのだ。不可能。そして、構造が不思議だ。しかし、私たちは言葉を駆使して、わかり合うことがある。それは「気のせい」なのかもしれない。もしくは、その言葉たちは私たちの理解を超え、より不思議になっているのかもしれない。言葉を無視することはできない。私たちは「言葉」にもっと真摯に向き合う必要がある。言葉が私たちを語れないように、私たちは言葉を語ることはできない。もしかしたら、言葉はすぐそばにあって、私が遠ざけているだけなのかもしれない。これから私がどんな風に「言葉」と接していくかがこの先の生活を左右するだろう。

 

最後まで、読んでいただきありがとうございます。こんなに捻くれ者の私ですが、もし面白いと思ったら、また会いにきてください。私はいつでも寂しいです。

私の知らないあなたへ